中飛車研究所(将棋)掲示板
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今回は昭和の将棋を観ていきましょう。1969年の王位戦予選、大内延介vs松田茂行戦です。 大内九段はご存じの方も多いと思います。「穴熊党総裁」の異名を取り、名人戦でも振り穴を駆使し、当時の中原名人をあと一歩まで追い詰めたシリーズは語り草です。それで本来であれば教科書に出てくるような大内穴熊の快勝譜を紹介するべきなのでしょうが、本譜は違います。その穴熊党総裁が振り穴に負かされてしまう内容に、ヘボは面白いと思いました。 松田九段は売り出し中の頃、「鳥取のダイヤモンド」と称され、当時の大山康晴と双璧でした。何かの棋戦で二人が当たり、松田の勝利。タニマチのような人が「私は負けるのが嫌いだから、勝った松田君にご馳走する」とか何とか言って、松田と一緒に対局室から出て行き、残された大山が悔し涙に暮れた、そういうこともあったそうです。松田九段はセンスは抜群でしたが、将棋一筋になりきれず、結局大山の後塵を拝すことになったと歴史の本には書かれています。おじさんの好きそうな話。(>_<) では漸く将棋。 大内・松田ともオールラウンダーでした。そこで駆け引きの末に先手大内の左銀急戦、後手松田の四間穴熊になりました。実は大内九段、本局の2年前に王位戦で大山名人に挑戦し、敗退しているのですが、まだ振り穴は使っていなかったようです。それで居飛車急戦だったのかもしれませんが(因みに相振りもよく指されており、穴熊でもよく勝っていました)。そもそも居飛穴という発想も棋界全体には無く、「振り飛車には急戦」が支配的でした。その中で升田幸三が名人戦で居飛穴を指したのが1968年のことです。いや凄いですね。おっと、また脱線してしまいました。(>_<) とにかく休戦、違った、急戦です。 振り穴はどうにか▽9一玉まで潜ったものの、▽8二のハッチは閉めておらず大丈夫なのでしょうか?対する居飛車は▲5五歩で角道を止めたのが工夫の一手。今では定跡ですが、飛は勿論、振り飛車に角を捌かれると悪くなるという感覚があったのだと思います。しかし備えも空しく、派手な駒の取り合いから結局は居飛車が飛(いや、竜2枚になりました)2枚、振り穴が角2枚を持ち、目論見は頓挫することになりました。 中盤(かな?)、駒の損得はありませんが、ヘボは断然振り穴側を持ちたいですね。船囲いの残った居飛車陣に大きな傷がある訳ではないのですが、振り穴の玉が「遠い」。竜2匹いるのですが、自陣では威力が半減、「竜は自陣に」ではしっくりきませんね。(>_<) ここからの振り穴の指し回しが上手く、自陣の外壁を破られる間に「駒の裏を取る」攻め、マムシのと金の活躍です。76手目の▽6九銀のタダ捨てで玉を下段に落とし、82手目の▽2六角で挟撃体勢、全ての駒が目一杯働きました。相手の大内は後の「怒濤流」ですが、怒濤の寄せとはこのような展開を言うのでしょう。攻め始めてからは一度もターンを渡さない完勝でした。 ヘボは本譜のような将棋が大内穴熊戦法誕生のきっかけになったのだと思いました。ある戦法で負かされて「よし、次はこいつを攻略する」と考えるか、「これは俺が使えるのでは」と感じるのか、どちらも正しいですが、大内延介は後者だったのではというのが今回の結論です。因みに松田九段が大内得意の「ツノ銀中飛車」の創始者であったことも付け加えておきます。(^_^)
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